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大阪地方裁判所 平成4年(ワ)8931号 判決 1996年5月20日

原告

甲野花子

外三五五名

右原告ら訴訟代理人弁護士

位田浩

井上二郎

井上英昭

大野康平

大野町子

岡田義雄

小田幸児

加島宏

片見冨士夫

金井塚康弘

冠木克彦

桜井健雄

武村二三夫

中北龍太郎

原田紀敏

藤田一良

藤田正隆

井上二郎訴訟復代理人弁護士

中島光孝

被告

右代表者法務大臣

長尾立子

右指定代理人

白石研二

外五名

主文

一  原告らの本件各訴えのうち、差止請求及び違憲確認請求に係る訴えをいずれも却下する。

二  原告らのその余の請求(国家賠償請求)をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

(平成四年(ワ)第八〇六四号事件)

一  被告は、国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(以下「国連平和協力法」という。)に基づいて、自衛隊員をカンボジアに派遣してはならない。

二  被告が、国連平和協力法に基づいて、自衛隊をカンボジアに派遣したことは、違憲であることを確認する。

三  被告は、原告らそれぞれに対し、各一万円を支払え。

(平成四年(ワ)第八九三一号及び第九九七二号事件)

一  被告は、国連平和協力法に基づいて、自衛隊員をカンボジアにおける国際連合(以下「国連」という。)の平和維持活動に従事させてはならない。

二  平成四年(ワ)第八〇六四号事件の二項、三項と同じ。

(平成五年(ワ)第三二六〇号事件)

一  平成四年(ワ)第八九三一号事件の一項及び平成四年(ワ)第八〇六四号事件の二項と同じ。

二  被告は、原告らそれぞれに対し、各二万円を支払え。

(平成五年(ワ)第三二六一号事件)

平成四年(ワ)第八〇六四号事件の三項と同じ。

第二  事案の概要

本件は、原告らが、被告に対し、国連平和協力法に基づき、自衛隊員をカンボジアに派遣することの差止めと自衛隊員をカンボジアにおいて国連の平和維持活動に従事させることの差止め及び被告が自衛隊をカンボジアに派遣したことが違憲であることの確認を求めるとともに、被告による国連平和協力法に基づく自衛隊員のカンボジア派遣により、原告らの平和的生存権及び納税者基本権が侵害されたとして、国家賠償法一条一項に基づき損害賠償を請求している事案である。

一  前提となる事実(自衛隊員のカンボジア派遣)

平成四年六月一五日、国連平和協力法が成立し、同年八月一〇日、同法施行令が、同年九月一日、防衛庁長官から自衛隊各幕僚長に同法に基づく準備命令がそれぞれ出され、同月八日、カンボジア国際平和協力業務実施計画の閣議決定がされた。同月一一日、防衛庁長官から自衛隊各隊にカンボジア国際平和協力業務の実施命令が出され、自衛隊員は、順次カンボジアへ派遣され、その数は、道路補修にあたる自衛隊施設大隊第一次及び第二次各六〇〇人、自衛隊停戦監視員第一次及び第二次各八人であり、選挙監視員以外の自衛隊員は、おおむね同年九月から平成五年一〇月までの間活動した。(甲三、弁論の全趣旨)

二  争点及び争点についての当事者の主張

1  自衛隊のカンボジア派遣の違憲確認を求める訴えの適否

(一) 原告らの主張

日本国民は、自己の支払った租税によって維持されている自衛隊が戦争状態にある海外に派兵されるなどして、自己が戦争に加担させられたときには、平和的生存権の侵害を理由に、裁判所に対し違憲確認を求める利益を有する。

(二) 被告の主張

(1) 原告らの違憲確認を求める訴えは、自衛隊のカンボジア派遣の事実によって、原告らの平和的生存権ないし納税者基本権はもとより、そのほかの権利あるいは義務に直接的に何らかの影響を及ぼす余地は全くなく、原告らの具体的な権利義務ないし法律関係の存否とは、およそかかわりのないものであるから、裁判所法三条一項にいう「法律上の争訟」に該当せず、司法審査の対象とはなり得ない不適法なものというべきである。

(2) 原告らの違憲確認を求める訴えは、その請求の趣旨の文言自体に照らし、単なる事実の確認を求めるものであるというほかはなく、現在の権利又は法律関係仁係る訴えではないから、確認の利益がなく、確認訴訟における対象適格性を欠くものとして不適法である。

2  国家賠償請求における平和的生存権の法的保護対象性の有無

(一) 原告らの主張

別紙原告らの主張要旨のとおり

(二) 被告の主張

別紙被告主張要旨のとおり

3  国家賠償請求における納税者基本権の法的保護対象性の有無

(一) 原告らの主張

日本国憲法の採っている財政民主主義原理の下では、国家は国民の国家に対する信託の本旨に従って租税を使用することを前提にして初めて租税を徴収し得るのであるから、政府は、国費支出に際し、国費支出に関する明確な禁止命令を定めた憲法の条項に違反することは許されず、違反があった場合には、納税者は、信託法の類推により、憲法違反の国費支出の中止ないし是正、損害賠償、再発防止を求める権利を有するのである。そして、自衛隊員のカンボジア派遣は、憲法九条に違反しているから、原告らは右権利を行使して、本件訴訟を提起したものである。

納税者基本権は、租税を国家に支払う国民の期待する福利が正しく達成されることを確保し、支払った租税があらぬことに浪費され、あるいはそれを越えて納税者の生存まで脅かすことのないことを確保するために納税者に当然認められた基本的人権である。それは、同時に、日本国憲法による憲法秩序の維持のため、納税者である国民に付託された最も重要な憲法上の義務としての性格も有する。したがって、参政権に法規範性があるのと同様に、このような性格を有する納税者基本権に法規範性があると考えるのは当然である。

(二) 被告の主張

原告らが主張する納税者基本権は、その概念、具体的な権利内容、根拠規定、主体、成立要件、法律効果等のどの点をとってみても何ら明確ではなく、その外延を画することさえできない、極めてあいまいなものであって、現行法の解釈上、原告らの主張のごとき権利を導き出す余地はない。

4  原告らの損害額(原告らの主張)

自衛隊のカンボジア派遣により原告らの被った損害は、計り知れないほど大きいが、その内金として、平成四年(ワ)第八〇六四号、第八九三一号、第九九七二号および平成五年(ワ)第三二六一号の各事件においては、原告ら各自につき一万円を、平成五年(ワ)第三二六〇号事件においては、原告ら各自につき二万円を請求する。

第三  判断

一  自衛隊員のカンボジア派遣の差止請求及び国連の平和維持活動への従事の差止請求について

本件口頭弁論終結時において、国連平和協力法に基づく自衛隊員のカンボジア派遺及び自衛隊員のカンボジアにおける国連の平和維持活動への従事が既に終了していることは、弁論の全趣旨から明らかである。

差止請求訴訟は、その性質上、当該行為の未了を要件としているのであり、原告らが差止の対象としている「被告による自衛隊員のカンボジア派遣あるいは、自衛隊員を国連の平和維持活動に従事させる行為」が既に終了している以上、右の各差止請求に係る訴えは、不適法なものであるから、却下すべきである。

二  争点1(自衛隊のカンボジア派遣の違憲確認を求める訴えの適否)について

1  原告らは、国民の平和的生存権及び納税者基本権に基づき、自衛隊のカンボジア派遣が違憲であることの確認を求める旨主張する。

しかし、原告らが被告により侵害されたとして本件違憲確認の訴えによって保護を求めている権利ないし利益が、原告ら固有の権利ないし利益ではなく、国民のすべてに等しく関わる利益にすぎないことは、その主張自体から明らかであるから、原告らは、単に国民ないしは納税者としての地位に基づき自衛隊のカンボジアへの派遣が違憲であることの確認を求めているといわざるを得ない。そして、我が国においては、単に国民ないしは納税者としての地位に基づいて、国に対し、国の行う具体的な国政行為の是正等を求める訴えは制度として認められていないから、本件違憲確認請求に係る訴えは、不適法なものとして却下せざるを得ない。

2  原告らは、この点に関し、余人についてはいざ知らず、本件訴訟を提起した原告らに関する限り、その人格的及び思想良心の自由、信教の自由を侵害し、ひいては平和的生存権を侵害された旨主張する。

しかし、原告らの主張する権利ないし利益は、前記のとおり国民すべてに共通する一般的利益であり、原告らに固有のものではないというべきであるし、原告らが本件訴訟を提起したからといって、原告らの右権利ないし利益だけが他の国民一般のそれと異なり、特別な権利ないし利益として手厚く保護されていると解すべき法的根拠も全くない。

3  さらに、原告らが違憲であることの確認を求めている対象は、被告による自衛隊のカンボジア派遣という事実行為であって、現在の権利または法律関係に係る訴えではないから、確認の利益を欠き、本件違憲確認請求に係る訴えは、確認訴訟としても不適法であり、却下を免れないというべきである。

三  争点2(国家賠償請求における平和的生存権の法的保護対象性の有無)について

1  前記前提となる事実及び証拠(甲一ないし一四、一五の1ないし3、一六、証人浦部法穂、証人前田哲男、証人林茂生、原告A本人、原告B本人、原告C本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の各事実を認めることができる。

(一) 昭和五三年のベトナム軍の侵攻以来、ポル・ポト政権時代の大虐殺など内戦の絶えなかったカンボジアの和平を図るため、平成四年一〇月、パリにおいて、「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」(以下「パリ和平協定」という。)が成立し、内戦に従事してきた四つの武装勢力(プノンペン政権、ポル・ポト派、ラナリット派、ソン・サン派)は、この日を期して「自発的な停戦」に入ることに合意した。パリ和平協定に基づいて、平成四年三月一五日、国連カンボジア暫定統治機構(以下「UNTAC」という。)が発足し、難民帰還と定住、行政組織確立と移管、武装勢力の武装解除、総選挙実施と新憲法制定、新政府樹立等をめざすこととなった。しかし、平成四年六月一三日をもって武装解除を開始するとの通知が出されたが、ポル・ポト派は、武装解除を拒否する態度を示して攻撃を開始し、予定された総選挙を阻止するとの態度を示し、平成五年五月二三日に予定された総選挙が近づくにつれ、ポル・ポト派によるテロ行為が頻発するようになり、日本人ボランティアの中田氏及び文民警察官の高田氏の殺害事件も発生した。さらに、選挙戦が始まると各政党に対するテロが頻発した。

(二) 自衛隊のカンボジアにおける主要業務は、カンボジア南部にある国道二号線及び三号線の道路及び橋の修理等であったが、平成五年四月二七日の閣議で、日本施設大隊に、新たにUNTAC選挙部門等への給食支援、宿泊又は作業のための施設の提供等という任務が加えられた。そして、選挙支援行動として、現地の陸上自衛隊幕僚長は、次の六項目の安全対策を指揮した。

(1) 治安情報の収集・分析・提供及び意見交換

(2) 選挙監視員に対する自衛隊の緊急時の対応を説明

(3) UNTAC選挙要員の輸送・給水・食料の提供

(4) 偵察班を編成、道路・橋の偵察の際、毎日一回は投票所を訪れ治安情報を伝達

(5) 選挙監視員の無線交信の常時傍受とフランス軍歩兵部隊への連絡体制の整備

(6) 部隊に緊急医療チームを編成・待機

(三) 国連平和協定法の制定に当たっては、国会においても、自衛隊の海外派遣に関する従来の政府の見解と整合しないのではないかとか、憲法に違反するのではないかなどという強い反対意見があり、また、市民団体等によっても制定に反対する運動が行なわれた。原告らは、非戦平和運動、反戦運動等の団体に加入して活動し、あるいは平和運動に関心を寄せる市民であって、いずれも国連平和協力法や自衛隊のPKO派遣に反対する立場の者である。

2  原告らは、憲法において、平和的生存権は、前文によって宣言され、九条によってその制度的・客観的側面を規定されるとともに、具体的権利として、まず一三条によって人格的生存の問題として保障されており、同時に一九条、二〇条一項前段によって思想良心の自由・信教の自由の問題として保障されているところ、被告は、自衛隊の本件派遣により、原告らの人格的生存及び思想良心の自由・信教の自由を侵害し、ひいては平和的生存権を侵害した旨主張する。

確かに、憲法は、前文において、恒久の平和を念願し、全世界の国民が、平和のうちに生存する権利を有することを確認する旨を謳い、九条において、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を放棄し、戦力を保持せず、国の交戦権を認めない旨規定している。しかし、これらの条項により規定された平和的生存権は、理念ないし目的としての抽象的概念であって、権利としての具体的内容を有するものとはいい難く、右規定を根拠として、国民各個人に対し、憲法により保障された人格的生存ないし思想良心の自由・信教の自由として具体的に平和的生存権が保障されているとか、法律上何らかの具体的な権利ないし利益が保障されていると解することはできない。

四  争点3(国家賠償請求における納税者基本権の法的保護対象性の有無)について

原告らは、納税者基本権に基づき、違法な支出に対しては、この権利の侵害を理由として、右支出の差止め、損害賠償請求等の通常の主観訴訟を提起することができる旨主張する。しかし、国費の支出について、国民の代表により議会を通じて監督する間接民主主義の制度を採るかどうか、また、国民個人の直接の権限行使による監督、例えば、地方自治法における住民監査請求、住民訴訟等の直接民主主義の制度を設けるかどうか、その制度内容をどのようなものにするかということは、その国における国情に応じて選択することができると解される。しかるところ、日本国憲法においては、国費の支出内容の当否の論議を国民の代表機関たる国会において審議する間接民主主義の制度を規定するのみであって、直接民主主義の制度については何ら規定を置いていないのであるから、日本国憲法は、国民個人あるいは納税者個人に原告ら主張のような権利ないし権限を付与しているものと解することはできない。

また、原告らは、信託法上の法理を類推して、国民あるいは納税者は信託法上、委託者及び受託者が有する権利に類する権利を国に対して有すると解すべきである旨主張する。しかし、前記のとおり日本国憲法が国費支出の監督制度として間接民主主義の制度のみを選択していること及び信託法は私的契約に基づく関係を規律する規定であることに照らすと、原告ら主張のように国民あるいは納税者と国との間に信託法の法理を類推することは解釈論として無理というほかはない。

五  以上によれば、原告らがカンボジアへの自衛隊派遣により侵害されたと主張する権利ないし利益は、いずれも損害賠償により法的保護を与えられるべき利益には当たらないから、原告らの本件各訴えのうち、国家賠償請求については、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

六  結論

以上のとおり、原告らの本件各訴えのうち、差止請求及び違憲確認請求に係る訴えは、不適法であるから、いずれもこれを却下し、その余の請求(国家賠償請求)は、いずれも理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中田昭孝 裁判官齋藤聡 裁判官森純子は、転補につき、署名捺印することができない。裁判長裁判官中田昭孝)

(原告ら主張要旨)

第一  国連平和協力法の違法性

一  国連平和協力法は、その条文自体が、国際連合によるものに限定しておらず、多国籍軍方式でもあるいは単独派兵でも可能な方式で定められているし、また、基本原則で、「交際平和協力業務の実施等は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。」としながら、明らかに軍事行動に当たるものを業務として挙げており、かつ、自衛隊がもつ「装備」については「事務総長が必要と認める限度で定めるものとする」旨規定され、事実上制限がなく拡大され得るものである。さらに、参加五原則はカンボジアにおいて無惨にも放てきされ、国連平和協力法は、武力行使を禁じた憲法九条違反であることは明らかである。

二  右は、次のような現地での具体的な事実により、裏付けられる。

1  カンボジアの軍事情勢

(一) 一九九一年一〇月「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定(パリ和平協定)が成立し、同協定によれば内戦に従事してきた四つの武装勢力が「自発的な停戦」に入ることに同意している。

しかし、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が現実に発足した九二年三月一五日頃には、すでに中部を中心に小戦闘がはじまっていた。クメール・ルージュ(ポル・ポト派)は国土の二割を支配し、中部コンポトム州からは、パリ和平協定で約束された「自発的な停戦」が間断なく停戦違反によって脅かされているとの報がしきりに伝えられた。

(二) UNTACが九二年六月一三日をもって武装解除を開始するとの通告を出したが、ポル・ポト派は武装解除を拒否する態度を明確にした。ここに至って、パリ和平協定が前提とし、かつ、日本の自衛隊派遣の前提条件たる「停戦状態」が大きく崩れ始めた。

パリ和平協定のスケジュールは次のとおりであった。

「パリ和平協定は『停戦は二つの段階からなる』と規定している。

『第一段階は国連事務総長のあっせんによる。第二段階はUNTACが監督・検証する。UNTAC軍事部門の司令官は、第二段階開始の日取りを決定する』(附属文書Ⅱ)という条項がそれだ。権限に従い、サンダーソン司令官は第二段階開始の日取りを一九九二年六月一三日と定めた。UNTAC発足後ほぼ三ヵ月目にあたる。

この日を期して、内戦四派―プノンペン政権軍(CPAF)一二万七〇〇〇人、ポル・ポト派軍(NADK)二万七〇〇〇人、ラナリット派軍(ANKI)一万七〇〇〇人、ソン・サン派軍六五〇〇人、合計約一八万人の正規軍―に対し、UNTAC監視のもとに武装解除が行われ、武器の回収と兵士の動員解除、市民生活への復帰が始まる手はずになっていた。全国各地に八二ヵ所の『宿営地』(カントンメント)が設けられ、各派軍隊はここに入らなければならない。そこで武装解除が行われるのだ。『UNTACは軍隊の終結・宿営を第二段階開始から四週間以内に完了するよう努める。』(附属文書同)と時期が設定されていた。」(甲第三号証六六頁)

しかし、このもくろみはポル・ポト派の武装解除拒否によって大きな混乱と、そして、国連の「総選挙強行突破」方針によって各地における戦闘状態及び多くの悲劇が生まれることになる。

(三) 九二年六月からのポル・ポト派による攻勢の状況は次のとおりである。

「六月六日、タイ国境に近いプレアビヒア州クーレンを攻撃したポル・ポト派部隊は『これから六ヵ月間戦う』と書いたビラを残して去った。ラミネート処理された、雨に濡れても消えないビラだったそうだ。以後、攻勢は各地に広がり、かつ強化される一方で、国道一二号線もコンポントム州で支配権を奪われた。国土の八〇%を実効支配していると主張するプノンペン政府軍も一方的な守勢に立たされる状況となった。正式発表されないが、孤立する陣地、兵士の死傷者もかなりの数に達するという。国連ヘリに対する銃撃が二月に続きこの月も起きた。六月一三日、この日、UNTACが設定した武装解除が始まったのだが、武器点検のための軍隊移動の停止及び宿営地入りなど完全に無視して攻撃は続いた。」(甲第三号証七三〜七四頁)

(四) 九二年秋の段階、つまり、日本の自衛隊第一次隊が派遣された当時、ポル・ポト派は武装解除に応じないばかりか、UNTACの予定した第三段階の選挙にも協力しないという態度を明らかにし、かつ、選挙そのものを阻止するとの態度を表明していた。中部及び北部においては選挙のために送り込まれたUNV、国連ボランティア、文民警察、公務員に対して個人的なテロや事務所に対して爆弾を投げる等の事件が発生していた。

同年一二月に前田証人が取材にいった時には、コンポントムとプノンペン間を往復するヘリコプターには座席の下に防弾チョッキを敷く必要があり、夜はポル・ポト派とプノンペン政権軍との間の砲火が絶えず交えられていた。

(五) 翌九三年からはプノンペン政権軍による攻勢が大規模になされ、UNTACをして「パリ和平協定締結以来最大の停戦違反」と声名させるほどの大掛かりな軍事作戦がなされた。中部コンポントム州、西部バッタンバン州、北部シェムレアップ州など五州一〇戦域からポル・ポト派支配地域を包囲し、根拠地パイリンにまで迫った。正に内戦再開寸前の事態にまで進展した。

一方、ポル・ポト派は反撃としてUNTAC要員を攻撃した。シェムレアップ州では文民警察の宿舎にロケット弾が撃ち込まれ(一月一二日)、コンポントム州ではUNTAC要員の拉致・拘束事件が相次いだ。

(六) 五月二三日に予定される総選挙が近づくにつれ、軍事緊張が増していった。このような中で日本の中田氏、高田氏の殺害がなされた。ベトナム人に対するテロ行為は日常的になされ(三月一〇日、三四人の殺害)、各地で頻発した。テロの対象はUNTAC兵士や要員にも向けられた。

(七) 選挙戦がはじまると各政党に対するテロが頻発した。フンシンペック党(ラナリット派)は六〇人、仏教自民党(ソン・サン派)は三〇人の犠牲者を出した。かかる事態はパリ和平協定が全く想定しなかった事態である。

このような環境悪化はガリ事務総長自ら認めざるをえなかった。投票開始一週間前に安全保障理事会に送られた報告書には「UNTACによる入念な選挙準備にもかかわらず、選挙に向けた状況がパリ和平協定が想定したものでないことは、いまや明らかだ」と書かれていた。しかし、国連は、選挙を予定通り実施することを要求した。まさに、武装下における選挙が実施されたのである。

2  自衛隊の行動の実態

(一) 以上のような軍事情勢の中で、本来業務として道路補修等の工兵隊の仕事を受け持っていた自衛隊の行動は大きく変容をとげ、選挙支援部隊から、ついに、武装歩兵大隊に変化した。国連平和協力法では凍結されていたはずのPKF(平和維持軍)の任務が現実に遂行されたのである。

(二) 政府は九三年四月二七日の閣議で「実施計画」の一部を変え、日本施設大隊に対し新たに、UNTAC選挙部門等への給食支援、同部門等への宿泊または作業のための施設の提供等という任務を加えた。

(三) 選挙支援行動として、現地の陸上自衛隊西之幕僚長は一〇〇ヶ所の投票所への「立ち寄り」実施などを含む「六項目の安全対策」を指揮した。その内容は次のとおりである。

①(UNTACと)治安情報の収集・分析・提供および意見交換

②選挙監視員に対する自衛隊の緊急時の対応を説明

③UNTAC選挙要員の輸送・給水・食料の提供

④偵察班を編成、道路・橋の偵察のさい毎日一回は投票所を訪れ治安情報を伝達

⑤選挙監視員の無線交信の常時傍受と仏軍歩兵部隊への連絡体制の整備

⑥部隊に緊急医療チームを編成・待機

しかし、この内容は凍結されているはずのPKFの任務を国会の承認を得ぬままで現地制服組が暴走して定めたものであり、国連平和協力法に違反するとともに、シビリアンコントロールにも違反した措置である。

(四) そして、最後の駄目押しの任務追加はフランス歩兵部隊との共同行動である。ここに至って、自衛隊は武装歩兵大隊として変容をとげたのである。

その具体的な任務の内容は次のとおりである。

第一に、タケオ駐屯地に受け入れた日本人四一人を含む国際選挙監視員(IPSO)の各投票所までの輸送、つまり『護衛』。第二に、タケオ州内約一〇〇ヶ所の投票所に一日一回立ち寄る武装パトロール、つまり『巡回』。第三に投票箱の護送である。いずれのケースも、任務が妨げられた場合『武器の使用』の条件となる。どれ一つとしても一九九二年九月決定された『カンボジア国連平和協力業務実施計画』に盛り込まれていた任務ではない。むしろ国会審議の中では『行えない』とされていた分野の業務に属する。それがいつの間にか本来業務の道路、橋の整備作業を一時中断して主任務の位置についたのである。『邦人保護』を逆手にとった自衛隊活用論であり、国民の誰も考えていなかった展開であった。

3  「五原則」違反

(一) 政府が国連平和協力法の違憲性を糊塗するために定めた参加五原則は左記のとおりであるが、自衛隊の現実の行動並びにカンボジアにおける具体的な軍事状況はこの五原則に違反している。

<参加の五原則>

① 武力紛争停止についての紛争当事者間の合意

② PKOが行われている地域の属する国、紛争当事者の同意

③ いずれの紛争当事者にも偏らない中立性

④ これらの条件が崩れた場合の業務の中断、撤収

⑤ 小型武器の使用は生命、身体を守るためやむを得ない必要があると認める場合に限定

(二) 五原則の第一項については、前記軍事情勢において詳しく事実関係を確認したように、少なくとも九二年六月、ポル・ポト派が武装解除を拒否し、同年秋からは明確に総選挙阻止の姿勢を打ち出した頃からは停戦違反の戦闘が続出し、「武力紛争停止についての紛争当事者間の合意」は存在しなくなったのであるから、第一項の要件は充足しなくなった。

政府はパリ和平協定からの脱退をポル・ポト派が表明していないという形式的理由をもって、第一項の要件充足を主張したが、そもそも、第一項が定められたのは、自衛隊が「武力の行使をしない」という要件が守られる状況設定として定められたものであり、形式的理由ではなく、実質的に武力行使に至らない状況において判断されなければならない。前記軍事情勢で確認しえた事実関係に立てば、自衛隊は「発砲行為」がなかっただけで、軍事行動をとっているのであって、武力の行使を行っている。

(三) 同第二項の原則についても、ポル・ポト派によるUNTAC要員、兵士、ボランティアを含めての国連活動者に対する武力攻撃が多数存在したのであるから、同第二項の要件も充足していない。

(四) 同第三項の要件も、ポル・ポト派がUNTACの要員に武力攻撃をなし、そのため、UNTAC自身が「当事者」となって対応せざるをえなくなり、必然的に中立ではなく、対ポル・ポト派に対峙するという形で中立性は失われていたものであり、この第三項の要件も充足していない。

(五) 参加五原則の右諸要件が充足しなくなったのであるから、自衛隊は撤収すべきであったにもかかわらず、逆に、国連指揮下に深くくみ込まれ、UNTACの他のPKF部隊と行動を共にする形で国連平和協力法自体に違反する行動をなした。

(六) 以上のように、国連平和協力法の違憲性を糊塗するために定められた五原則すら充足しなくなってもカンボジアでの軍事行動に参加した自衛隊の行動自体憲法に違反している事が明らかである。

そして、この事実は、国連平和協力法自体が必然的にもたらした事実であって、同法の違憲性は明らかに証明されたというべきである。

4  グローバルな日本軍の海外派兵の道を作った。

(一) カンボジアへの派遣と並行する形でモザンビークPKOへの派遣がなされ、モザンビークに重なる形でルワンダへの派遣がなされた。モザンビーク派遣においては司令部への要員派遣がなされたが、司令部への派遣は国連基準による軍事行動に当然に関与し、かつ、責任を負わざるをえないことを意味している。カンボジア派遣においては、してはならないとされた司令部への派遣をなし崩し的に行ったのである。

(二) そして、ルワンダへの人道救援派遣は、国連の難民高等弁務官事務所の要請によるものであり、このリーディングケースは国連の専門機関、補助機関の要請でも派遣することを実行したわけで、正にグローバルな自衛隊派遣、派兵を作り出した。

(三) これら、国連平和協力法に基づくとしてなされた行為は、自衛隊の地球規模にわたる軍隊派遣の道を開き、憲法に完全に違反する海外派兵をとめどもなく拡大していく事態を作り出した。国連平和協力法自体いかに「武力行使」をしないと規定しようと、カンボジアの事態をみても明らかなように、軍隊はその時の軍事情勢により武力を使わざるをえないわけで、海外派兵を定めた国連平和協力法自体が違憲であることは明らかというべきである。

第二  自衛隊のカンボジア派遣の危険性及び違憲性

一  海外派兵の動き

イラクがクウェートに進攻し、湾岸戦争が続いている間、政府は国連平和協力法案を国会に提案した。その内容は、いわゆる多国籍軍への後方支援とPKOへの協力及び人道的な国際救援活動への全面参加を目的としたものであった。湾岸戦争後成立したPKO等協力法は、国連PKOに関しては軍事面を含め参加することや人道的な国際救援活動に参加することを基本目的としている。また、この両法案の間には、掃海部隊のペルシャ湾への派遣及び自衛隊の海外派遣を目的とした特例政令が制定された。こうした自衛隊海外派遣すなわち海外派兵の動きは、アマコスト駐日米大使の「日本も血を流せ」といった発言に見られるように、米国の日本に対する軍事分担の厳しい要求に応えるものであった。

PKO等協力法成立後は、自衛隊は、PKOに参加するため、カンボジア、モザンビーク、ルワンダに派兵され、一九九六年一月にはゴラン高原への派遣が予定されている。

また、九四年には自衛隊法が一部「改正」され、海外での邦人救出のために自衛隊機を派遣できるようになった。

二  PKOの変質

従来のPKOは、受入国の同意、周辺関係当時国の同意、自衛以外は「武力を使わない」という非強制的性格及び受入国の内政に干渉せず、紛争の一方の当事者に有利になるような影響力を行使せず、そのために派遣軍の構成から利害関係国や安保常任理事国を排する中立的性格を持っていた。

ところが、冷戦後、このPKOの性格は大きく変えられていくことになる。その契機となったのが九二年に発表された国連ガリ事務総長の平和執行部隊構想であった。その要点は、受入国や関係当時国の同意なしで、大国が中心となって重武装の軍隊を派遣し紛争を鎮圧しあるいは紛争予防のための軍事活動を展開するというものであった。こうした構想に従ったPKO活動がソマリア、旧ユーゴで展開されたが、失敗に終わった。また、PKOへの資金や兵力が集まらなかった。その結果、この構想は挫折した。このようなPKO活動が機能不全に陥るなかで、自国の国益追求のために、大国が、国連決議等のお墨付きを取って、PKOに代わって軍隊を派遣する方式が展開されるようになっている。ハイチ、グルジア、ルワンダでのPKOの実態はそのようなものであった。ボスニア国連緊急対応軍もPKOのシャッポを被った多国籍軍にほかならない。

三  PKO参加の実態

参加が決定されているゴラン高原PKOの実態は、国連兵力引き離しのための軍事活動でありPKF(国連平和維持軍)である。また、将来は、PKFに代わって米軍を中心とした多国籍軍が配置される構想が進行中である。日本は、PKFの一翼を担っている補給部隊にカナダに代わって参加することになっている。これはPKO等協力法成立の際に凍結されたPKFへの参加に踏み込むものである。問題は、それだけでなく、PKFから多国籍軍への軍事活動への移行にスライドして、自衛隊がそのまま多国籍軍に参加する可能性があることである。これは、国連平和協力法案で企図された多国籍軍への協力を可能にするための環境づくりである。PKO等協力法成立の時から、PKOは右に見たとおり大きくその性格を変えてきている。ところが、政府は、改めてPKO参加の是非を国民に問うことなく、変質したPKOへの参加を積極的に進めようとしており、それに向けた既成事実づくりを先行させている。例えば、九三年五月には、「国際連合要員及び関連要員の安全に関する条約」が締結された。この条約は、PKOに参加した軍事要員の安全に対する危険を除去するための武力行使をいざとなれば受入国を無視しても容認する条約であり、PKOの強制的性格を一層強めるものである。また、防衛庁は、武器使用の基準を、PKO法で定められたPKO参加要員の自衛の範囲からPKO任務遂行のためにも拡大することを提案している。力の平和執行部隊あるいはPKOの名を冠した多国籍軍の活動を日米共同で運用することも検討されている。首相の私的諮問機関である防衛問題懇談会も、PKOへの全面参加あるいはPKO活動を自衛隊の主任務に格上げしようという方向を打ち出している。さらに、PKOに参加した自衛隊員の社会的地位を高め優遇すべく報奨金と勲章の特別の授与が実施されている。同じ目的で、海外派遣の自衛官処遇法案が準備されている。

このように、自衛隊のPKO活動は、軍事的強制的性格をますます強める方向で動いてきているのである。

四  国際貢献論の実態

湾岸戦争危機後、国際貢献という言葉が、政府サイドから多用されるようになってきている。この美しい言葉の陰に隠されているものは何か。国際貢献論の源流は、一九八五年ころに発表された第二次臨時行政調査会答申にある。そこでは、軍事力を含めた総合的安全保障が強調された。そのころから、例えば、防衛庁は、有事法制研究の一環として、PKO参加への研究を開始した。こうした流れを受けて、八八年竹下首相は、PKOや国際的な秩序維持活動への参加を打ちだした。こうした動きが、湾岸戦争以降一挙に具体化していったのである。

日本の外交政策の基本方針の一つとされる国連中心主義の中味も、大国を中心としその下での強権的な国際秩序維持を図ろうとする方針を支持する方向にどんどん傾斜し、非同盟諸国を中心とした非軍事による世界の矛盾の解決や社会的、公正の原則の重視し、弱者の人権を守ることをめざす国連中心主義を無視ないし敵視するようになってきた。

国際貢献論は、大国の軍事による世界秩序維持への加担を積極的に政策化していくための美名にすぎなかったのである。

五  日米安保条約と海外派兵政策

一九五一年サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約は、六〇年に改訂され今日に至っている。日米安保と海外派兵の動向は、密接に関連している。

防衛庁によると、戦後の防衛政策は、次の三段階に区分されている。第一段階は五九年から七五年の四次防の完了まで、第二段階は七六年から九〇年まで、第三段階が九一年以降である。第一段階では、防衛計画の基本目標はいわゆる「専守防衛」、米国にとってその意味は米戦略上重要不可欠な日本列島の防衛であった。第二段階は、第一段階での目標に加えて米国の軍事戦略上必要不可欠なシーレーン防衛が主要目標に置かれた。第三段階では、これらに加えて、第三世界にある海外権益を守ることに重点が置かれるようになっている。第二段階から第三段階へ移行する過程で、九二年に日米両国首脳は、日米はアジア太平洋地域に死活的利害を有する国であり、共同してその利益を守っていくグローバル・パートナーシップをうたった東京宣言が発せられた。

第二段階では、日米安保や自衛隊の目的はアジアの安定と安全にあるということが強調されるようになった。その基本的枠組みを決めたのが、一つは七八年の日米防衛協力指針であり、もう一つが七六年の防衛計画の大綱であった。八一年の鈴木・レーガン共同声明では、極東の平和と安定の確保のために日米の適切な役割分担の必要性が公にされた。その顕著な実例がシーレーンの千カイリ防衛である。千カイリより遠いところは米国が攻勢と防衛の両作戦を担うが、千カイリ以内では米国が攻勢的作戦を、日本が米軍に対する兵站補給のラインであるシーレーンを守るというように定式化された。そのための日米シーレーン防衛研究が続けられ、共同演習が頻繁に繰り返されるようになった。こうして、八八年の米国防報告では、日本の自衛隊は東アジア・太平洋における米防衛政策の土台と明記され、八七年の防衛白書で、初めて自衛隊の対外的役割が説かれるようになった。これに続いて、第三段階では、日米の海外権益を守るための他国での紛争波及型有事研究が日米共同で行われるようになった。

このように、自衛隊は、その活動の場を外へ外へと向けるようになってきているのである。現在、日米安保の再定義が浮上してきているが、これは要するに日米安保体制をアジア太平洋の安全と安定のために活用できるように定義し直そうというものである。これは、冷戦時代の対ソ対決の日米共同作戦計画から、冷戦後は世界中の地域紛争への共同対処へと日米安保が質的に転換していることに基づくものであり、そのような方向につくりかえていく宣言にほかならない。

こうした日米安保の変遷に伴って、自衛隊の対外的役割が拡大強化されてきている。米スコウクロフト国防次官補が明言しているように、国連決議で「正当化」された多国籍軍に自衛隊が参加することが決定的に重要視されるようになっているのである。このように、海外派兵は、日米安保体制の下でどうしても必要な政策となっているのである。

六  海外派兵政策の展開

自衛隊の各部隊は、海外にいつでも出動できる態勢を整えて待機しており、海外派兵は自衛隊の任務の中でますます重要な位置を占めるようになってきている。海外派兵政策は、自衛隊の役割に国際性を付与し、資源確保などの日本の国家戦略目標の達成に寄与させることを主眼にして展開されている。日本の海外資産は世界一といわれるほどまでに膨らんでおり、海外の権益を守ることが国策として一層重視されるようになっている。それを軍事力で保障することが、まさに海外派兵政策の目的なのである。朝日新聞に載った防衛庁幹部の「今後アジアの安定は、大東亜共栄圏と日米安保の統合によって進められる」との談話は、海外派兵政策の本質を雄弁に語っている。今や自衛隊の役割は、世界規模に拡大されてきているのである。

七  平和憲法を蹂躙する海外派兵政策

日本国憲法の平和主義の核心は、海外で武力を行使しない、武力を用いて脅かさない、そのためにだから武器を持たないという点にある。武力による「平和」維持はまさに、戦前「東洋平和」の名で武力進出が行われた誤った歴史に何も学ぼうとせず、平和憲法の根本を歪曲する行き方である。そうではなく、人間の尊厳を守り実現する諸活動を展開し、戦争の原因を取り除き戦争のない世界つまり平和をつくりだす努力が平和憲法の求めているものなのである。

カンボジアPKO派兵は、日本の政策をより危険な方向すなわち海外での武力行使ひいては戦争へと大きく踏み出させるものである。日本と世界の平和を守り抜くためにも、カンボジアPKO派遣の違憲性を確認することは非常に大きな意義を有しているのである。

第三  自衛隊のカンボジア派遣による平和的生存権の侵害

一  憲法九条の精神・原点

憲法前文・九条は、日本国民が、侵略の限りを尽くした日本軍国主義の危険を取り除くべく、恒久の平和を念願して、戦争放棄と戦力の不保持を決意し、定めたものであり、戦争に対する反省と、不戦の決意が平和憲法を制定させた。

第一次大戦後、戦争を解決する動きが国際的流れとなったが、一九二八年の不戦条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を違法とすることが宣言された。第二次世界大戦後結成された国際連合の国連憲章は、戦争、武力行使の違法化を基本的指針とした。このような流れを受けて、各国の憲法、例えばイタリア憲法等で、国際紛争を解決する手段としての戦争放棄が定められ、旧西ドイツの基本法も侵略戦争の違法化を定立した。しかしながら、侵略戦争を放棄するが、自衛戦争を違法としないいわば不完全な戦争放棄条項が、第二次世界大戦勃発の抜け道となった。これに対し、日本国憲法は、九条一項で国際紛争解決の手段としての戦争を放棄したうえ、二項において戦力の不保持を定めた。日本国憲法は、国際条約や他国の憲法と違って、戦争放棄という目的を完全に達成するために、戦力を一切持たないという選択をしたのである。また、日本国憲法は、平和の問題を国家の政策問題にとどめず、人権の問題として定式化した。この二点において、日本国憲法の平和主義の世界史的意義がある。憲法前文は、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認しており、それが九条の精神であることを明示している。

九条解釈について、憲法制定過程において、当時の吉田首相は自衛権の行使つまり自衛戦争をも放棄したもので自衛のための武力も保有しないことを定めたものであると明言しており、これが九条解釈の原点である。

二  自衛隊の違憲性

米国は、憲法制定当初、日本の完全非武装化をめざしたが、世界的冷戦が進行し、日本を共産主義の防壁にするという方向に転換し、一九五〇年に朝鮮戦争が勃発すると、出兵した占領の穴埋めのために警察予備隊を設置した。実態は限りなく軍隊に近かったが警察の一種と説明された。五二年に改組された補安隊については、戦力なき軍隊であるとか、近代戦争を有効に遂行しうるだけの能力を備えていないのだから合憲であると説明された。この説明の矛盾を指摘されると、政府見解の重点は自衛権というところに移されていく。五四年に自衛隊が発足すると、憲法九条でも国家固有の自衛権まで放棄されていない、自衛権を発動するための必要最小限の実力の保持は憲法で禁じられていないという見解が確立されていく。以来、自衛力合憲論が政府見解として維持されていくことになる。

しかし、この政府見解は、九条の原点解釈に明らかに背反しており、多くの根本的問題点がある。まず、自衛力という概念は非常に曖昧であり、際限なき軍備拡張につながっていく。また、自衛のための軍隊か侵略のための軍隊かを区別しえないのが現実であるから、自衛力合憲論は、平和憲法を根本から蹂躙するものである。

三  海外派兵の違憲性

自衛隊の存在自体が違憲である以上海外派兵は当然違憲である。

自衛力合憲論によっても、自衛隊が海外へ出て、軍事行動、武力行使することは自衛の範囲を超えており、違憲ということになる。政府も、従来、海外派兵は原則的に憲法上認められないとの見解を明らかにしていた。ところが、現実に海外派兵が始まると、海外派兵は一定の条件の下では合憲であると変遷していくことになる。こうした見解は、憲法九条による限界を崩していくものであり、再び戦争への道に日本を引きずり込んでいくまことに危険な解釈である。

四  国際貢献論と平和憲法との関連

湾岸戦争後強まってきた国際貢献論には、経済大国を政治大国になることによって維持していこうという狙いが込められている。こうした国際貢献論が登場するようになったのは、米ソ二極対立の冷戦構造の崩壊と深くかかわっている。冷戦後、米国は大国による世界の共同支配をめざすようになっており、その一つに日本も含まれ、こうした要求に日本が応えていくというのが国際貢献論である。日本が政治大国になるために、軍事的な役割の分担も担っていることが課せられ、そうしたなかで海外派兵の動きが高まってきているのである。

しかし、こうした国際貢献論は、平和憲法の精神とかけ離れたものである。世界は、一方で少数の経済的に豊かな国があり、他方経済的に貧しい国が多数存在している。前者は後者の犠牲のうえに成立している。また、経済優先の政策は確実に地球環境を破壊しており、このまま成長を追及するならば、早暁人類の生存すら脅かすまでに環境は破壊されてしまうし、資源も枯渇してしまう。国際貢献論は、大国が経済繁栄を続けるために多くの人々をその支配下に置いておくための戦略に日本も一翼を担っているというものである。

憲法前文は、「全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と明記している。これは、大国によって貧困を強いられるようなことがあってはならない、ということを指し示す一文である。貧困、環境破壊、資源枯渇を引き起こすことはまさに憲法が想定する平和を踏みにじるものである。つまり、世界の人々の人権、環境を大切にすることが達成すべき平和である。そのような平和は、決して軍事力で実現できるものではなく、繁栄のみをひたすら追及していくならば、やがて武力による衝突が不可避である。経済大国の維持を意図した海外派兵は、まさに、そうした戦争への道につながっている。そうではなく、世界の人々が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生きることができるように、積極的に努力していくことこそが、憲法が求める平和的国際協力である。海外派兵は、この精神に根本的に背馳するものである。

五  平和的生存権について

憲法前文は、平和のうちに生きる権利を有することを確認しており、平和的生存権は憲法によって保障されている権利である。平和的生存権の内容は、九条によってその具体的な保障形態が規定されている。そう考えられるのは、憲法の平和主義は平和を人権の問題として位置づけているからである。従って、九条に違反する政府の行為が行われたときは、それ自体が市民の平和的生存権の侵害になる。つまり、憲法が定めている平和とは軍備のない状態であって、平和的生存権は軍備のない状態で生活する権利としてとらえられるのであるから、軍備の保有は市民の平和的生存権への侵害にほかならない。海外派兵についても、同様平和的生存権を侵害するものといわざるを得ない。

被告は、平和的生存権について、概念が不明確・抽象的であり、内容・根拠・主体・成立要件・法律効果のいずれも一義性に欠けるから認められないし、国賠法上の被侵害利益足りえない、と主張している。しかし、失当である。平和的生存権は憲法前文によって宣言され、九条によってその制度的・客観的側面を規定されるとともに、具体的権利として、まず一三条によって人格的生存の問題として保障されており、同時に一九条・二〇条一項前段によって思想良心の自由・信教の自由の問題として保障されている。即ち、平和的生存権は、ほかの権利以上に明確な形で憲法で規定されている。主体の問題についていうと、近代憲法が諸国で成立した当時と比べて、現代社会にあっては、国家の活動の及ぼす影響は広範囲に広がっており、その事柄がもたらす影響の範囲が大きければ大きいほど、権利主体が広がっていくことになる。国家の平和あるいは軍事に関する政策が及ぼす影響はまさに広範囲に及んでおり、平和的生存権の主体は広がって当然である。その主体を立法政策上制限する法律が存在しない以上、憲法上、すべての市民が平和的生存権侵害を理由に提訴できる原告適格を有している、ということになる。

第四  具体的な平和的生存権の侵害

一  原告Aは、戦後間もなくの頃からクリスチャンの非戦平和運動の会「日本友和会」のメンバーとなり、また今日まで二〇年以上にわたって「韓国の原爆被爆者を救援する市民の会」の事務局をつとめるとともに、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」や「憲法九条の会関西」の活動にも積極的に参加してきた。これらの息の長い活動の歴史は、原告Aが自己のキリスト教信仰と一体のものとして、日本国憲法前文および九条の平和主義の精神を日常の生活の指針としてきたことの証明である。その原告Aにとって、自衛隊のPKO派遣は自己の信仰および信仰に基づく活動に対する深刻な脅威であり、韓国の人々との和解の活動への障害となった。

二  原告Bは、一九四四年から四〇年間教員をつとめた。旧制中学の教員として生徒を軍需工場での労働に引率した経験等から、戦後は「教え子を再び戦場に送らない」というスローガンを掲げる日教組の活動に参加し、とくに婦人部で反戦活動を活発に粘り強く続けた。原告Bの活動の根底には、日本国憲法とりわけその前文の精神への共感と、二度と戦争が起こらないような社会を作りたいという強い信念がある。その原告Bにとって自衛隊のPKO派遣は再び戦争への道を歩み出しているのではないかとの不安感、危機感を与えた。

三  原告Cは、戦後世代であるが、小さいころから「特攻隊の生き残り」の父親と中国からの引揚者の母親から戦争体験を聞かされ、また中学時代には戦争体験のある教員から残酷な戦場での体験を語られて育った。このような体験を背景に、原告Cは中学・高校での憲法の学習を通じて、戦争をすることも戦争に加担することも前文および九条の理念に反するとの信念を培った。戦争を嫌悪する原告Cにとって、憲法九条の存在は例えて言えば命の次ぐらいに大切なものとなっている。その原告Cはカンボジアに自衛隊が派遣されたことによって、際限のない武力行使への心配、自分が長年培った憲法の平和主義を尊重する気持が踏みにじられたとの憤りを抱いた。

四  その他の原告らについて

(一)  原告らは、性別も世代も様々であり、戦前派も戦中派も戦後派もいる。あえていえば、戦無派のごく若い世代のものはいない。職業も様々で公務員も民間も主婦もご高齢で無職の者もいる。性別や世代や職業的に片寄ったものたちではなく、そういう意味で、わが国のごく一般的な普通の人々の意見と言ってよい。そうした人々が、個々にみな具体的な平和的生存権の侵害を訴えているのである。

(二)  戦前派、戦中派のものたちは、戦闘や学徒動員、勤労動員等で、母や親友あるいは「幾多のやさしい近親者や友達」を亡くしている(D、Eら)。当時は、むしろ軍国少年であり、「死は鴻毛より軽し」といった軍人勅諭を暗唱し、(E)、「いかに潔く死ぬか」ということばかり教え込まされ、生きることを教えられていなかったことに、戦後愕然とした(D)ものたちであった。

また、直後のそうした体験の有無にかかわらず、「きけ、わだつみの声」を読むことなどを通じて日本の学徒動員の実態を追体験し、純粋な学徒兵を侵略の尖兵とした残酷を知り、過ちはくり返さないようにしようと強く考えたものたちでもある(F、E、Dら)。

(三)  学生や子どもなど、戦争によって将来を奪われるものに関連して特に強く平和的生存権の侵害を感じ、訴えるのはやはり母であり女性であり(G、F、Dら)、小学校の教員や職員といった「子ども達の笑顔に囲まれている仕事」に就いているものたちである(H、Iら)。具体的に日々子ども達から自衛隊の存在や海外派遣と憲法九条の問題について質問等を受ける立場にあると、「自衛力は戦力ではない」といった小手先の解釈論では子ども達を納得させられず、「おとなは嘘ばっかりつきよる」「決めたこと、いっこも守らん」と不信感を突きつけられて絶句させられてしまう(I)。

自衛隊の派兵にともない、派兵されることになりかねない自分の子どもに「戦争に行って人が殺せる」と聞くと、涙ながらに「殺されへん」とつぶやかれるなど、子ども達の平和的生存権が侵害されていることを実感したものもいる(F)。

(四)  日本の中の声ばかりではなく、世界の声、具体的にはアジアの人々の具体的な声からも、アジアの人々の平和的生存権の侵害を実感し訴えている。

すなわち、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会のいわゆる「従軍慰安婦」の方々の来日やその訴え(来日の際「日本の飛行機の日の丸」を見ても忌まわしい性的奴隷の過去の記憶に襲われ頭が割れそうになるとの悲痛な訴え等)に女性として共感し、アジアの人々は、五〇年経っても日本の侵略を忘れておらず、謝罪と償いがされていないなかでの「国際貢献」論は許されないと痛感するもの(G、Iら)。同じく、性的奴隷とされたアジアの女性が、自衛隊の掃海艇派遣のテレビニュースを見て、「あの恐ろしい時代がくるのかと思うと居ても立ってもいられなくなった」と実名を公表して忌まわしい過去の真実を訴えようとしたことに衝撃を受けたもの(J)。

またフィリピンに識字教育のボランティアのため学校訪問したところ、冷たい刺すような視線で「この辺りには家族や身内のものが日本軍に殺されたり虐殺された者が多い」と開口一番に言われたこと、現地の人々が「おい、こら」「ばかやろう」「きさま」といった日本語を今も覚えていること等から、戦後五〇年経っても残り清算されていないアジアの人々の思いに愕然とさせられたもの(J)。

この問題を機にカンボジアに行き、現地の人々はUNTACを「占領軍」と呼び、自衛隊を「ジャパニーズアーミー」と呼んでいるごく当たり前の事実を目の当たりにし、軍隊派遣の実態を実感している(H、K、Jら)。現地の最大の被害者はやはり子ども達であること、カンボジアでも自分たちと同じ「普通の人々が、普通に暮らしている」のであって、UNTACの軍隊による「統治実験」が、いかにそれと異質なものであるかを実感し(H)、自衛隊の「貢献」した道路工事が、「大雨ですぐ穴があいてしまう程度の」言い訳程度の工事であり、現地経済の復興に貢献していないこと(K、Jら)、死と隣合わせの自衛官に自分の息子を重ね合わせて胸を痛め(G)、また、明石代表も容認する「若くて美しい異性」を現地で求める自衛官にかつての従軍慰安婦が重ね合わされてくることなどから、UNTACの活動に正当性が見出だせないことを実感して平和的生存権の侵害を訴えている(Kら)。

日本にいるアジアからの留学生が戦車を現地(学生の祖国)に送らないでほしい、日本は米軍に協力しないでほしいと悲痛な訴えをしたことが心に突き刺さり、軍隊派遣がアジアの人々の平和的生存権の侵害であることを訴えるものもいる(D)。

五  以上は、国民一般とは区別される本件原告らに固有の精神的被害であり、かつ、原告らが訴えるのは、個人的な「憤怒の情、不快感」等といったものにすぎないものではなく、自衛隊のカンボジア国連PKO活動への派兵といった具体的出来事に対して、過去のそして現在の戦争と人々の様々な意味での犠牲に思いを致し、自らのそしてひいてはアジアの民衆の平和的生存権が侵害されたと痛感し、その結果として、同じ普通の生活をする普通の人間としての著しい精神的苦痛としての個々具体的な憤怒の情等を抱いているというものであり、損害賠償請求訴訟で法的に保護されるべきことは、理の当然である。

(被告主張要旨)

一  原告らは被侵害利益ないし権利として平和的生存権を挙げて、これについては具体的権利性を有する旨主張しているが、その概念そのものが抽象的かつ不明確であるばかりでなく、具体的な権利内容、根拠規定、主体、成立要件、法律効果等どの点をとってみても一義性に欠け、その外延を画することさえできない、極めてあいまいなものであり、このような平和的生存権なるものをもって、国家賠償法上の被侵害利益と認めることは到底できないものである。

二  もっとも、証人浦部法穂は、おおむね以下のとおり証言している。

「平和的生存権は、憲法九条により、その具体的内容としては軍備のない状態で生活する権利として認められるべきものである。このように解すると自衛隊の存在そのものが平和的生存権の侵害である以上、これをPKO活動に派遣することは、当然に平和的生存権の侵害である。

平和的生存権は、近代的な個人主義的な権利概念で論理構成することが相当ではない典型的な問題であって、権利の主体が非常に広範に認められることがあるからといっても、権利を侵害されたとして訴訟追行を妨げられるものではないから、国民すべてにかかる訴訟追行の資格が認められるべきである。むしろ、その範囲を妥当な範囲に画するのは立法政策の問題にすぎない。」

しかしながら、右の見解は、まず、憲法九条の解釈において、特異なものといわざるを得ない。また、権利自体のとらえ方についても近代的な個人についての権利を保障する憲法の体系に整合するかは極めて疑問であるし、これを容認するとしても何らの憲法上の明文なくして異なった性格の権利を解釈により導くことは困難である。いずれにしても、同証人の見解はひっきょう独自のものであるといわざるを得ない。

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